アヤタカな介護日記

タカちゃんの介護の日々を書いてみました

義務は不平等に!権利は平等に !

親の介護を平等に担っている姉妹はどれだけいるんだろうか?

家族の中で介護が必要になった時、やはり1番そばにいて同居している家族が介護をすることになる事が1番多いと思います。

 

配偶者がいれば配偶者に、いなければ子供に!その子供の中で同居している子供が介助者に!

 

自然と1番近くにいる家族が介助者となるケースが多いのは仕方がないですが、では別居していれば⁉︎他に新しい家庭を持ったら⁉︎介護をしなくていいわけがありません。

 

しかし、一度主たる介助者が決まるとなかなか他の家族(子供)などが積極的に関わってこなくなるケースも多いのではないでしょうか?

 

タカちゃん(母)が本格的な介護が必要になった時、アヤちゃんは同居していて独身でした。

 

なので自然とあやちゃんが主たる介助者となったのですが、この流れはたかちゃんが亡くなるまで?亡くなってからの遺品整理までずっと続く事となりました。

 

たかちゃんには次女のあやちゃんと長女の姉がいます。

姉はお願いすると月に1度5時間程度の介護をしに来てくれていましたが、頼まなければ来ませんでした。

 

そんな姉がタカちゃんが亡くなった時、あやちゃんの手を取り涙ながらに「今まで本当にご苦労様だね。頑張ってきたね。アヤコには申し訳ないと思っていたんだよ」とねぎらいの言葉をかけてきました。

 

アヤちゃんはとても複雑な気持ちになりました。

この20年間何度も何度も心が折れそうな位辛い時、あなた(姉)は助けてくれなかったじゃないか‼️と頭の片隅で叫ぶような感覚にも襲われました。

 

同じ子供として生まれたのに早く結婚して出て行ったから親の面倒は看なくて💢いや性格的に人の世話をするタイプの人ではなかったのか❓など、いろいろ考えることもありました。

 

たかちゃんが亡くなってからの役所手続きや遺品整理等も結局全てあやちゃん1人でやりました。

 

しかし、珍しく一緒にやったことがあります。

それは生命保険の請求をするため一緒に郵便局に行ったことです。

 

そこで思いがけない保険の特約が付いている事を初めて2人は知りました。

 

たかちゃんは平成7年に特別終身保険に入っていて生存保険金を何度かもらっていて最後死亡時に1,200,000支払われるものです。

 

しかし、その保険は特約⁉︎が付いていて100歳まで生きると仮定した保険で途中で亡くなると支払う分の保険金⁉︎が支給されるとのこと、、、説明を受けましたが内容がいまいち分かりません😅

 

保険証書にはそんな事は全く書かれていません。

 

しかもその額は本来もらえる額の倍以上でお互いびっくりしました。

 

アヤちゃんはちょっぴり⁉︎ だいぶ⁉︎複雑です。

タカちゃんの相続は少額である事には変わり無いのですが、思っていたより増額になることに素直に喜べないのです。

 

ほとんど介護もしてこなかった姉が増額になったことで喜んでいるのが分かったからです。

 

たかちゃんの頭がまだしっかりしていた時、「姉妹仲良くして」と言っていました。

だから介護量があやちゃんばっかりになっている事が面白くない時があっても、顔には出さず姉とは普通にやりとりをしていました。

 

小額の相続だから平等でもいいと思っていたのに、やや増額されたことに不愉快になりました。

 

その時はっとしました!これが相続トラブルの元なんだと!

つまらないことでトラブルにしたくは無いので平等に相続しました。 

 

今でも時々思います、、、この世の中は不平等で成り立っている面が多々あることを!

 

義務を果たさなくても権利は当たり前のようにもらう姉。

 

もうタカちゃんはいないのでアヤちゃんは姉との縁を静かに切ります😉

 

昔の郵便局の簡易保険はヤバ過ぎます。

今でもこんな内容の保険があったら絶対加入したくなる保険です。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

50代どう生きる?

年末が誕生日のあやちゃん、とうとうめでたく⁉︎ 50歳になりました。

30歳になってまもなく、どっぷり介護生活が始まりました。

 

我が家の場合徐々に介護量が増えたわけではなく、いきなり要介護5の状態のタカちゃん(母)の介護が始まったので生活は一変しました😵

 

20代はフルタイムで仕事ばっかりの生活でしたが、介護生活中心となっててからはタカちゃんがデイサービスの時にパートに出るのが精一杯でした。

 

最初の頃は介護保険もあまり詳しくなかったのでヘルパーさんをほとんど入れず1人で頑張っていました。

なんだって30歳になったばっかりだったので体力はありました😉

 

介護生活が始まった当初はまさか20年近くもこの様な生活が続くと思ってもみませんんでしたが、たかちゃんは内臓系はとても健康だったので50代も介護中心の生活だと思っていました。

なのに10月に急変してあっけなく逝ってしまうなんて、、、。

なので介護中心生活が無くなり、何も守らなくていい自由の時間がたっぷりできました。

 

50歳になっていきなり自由の身になったあやちゃん。

さて、50歳!若くは無いけど年寄りでもない。

20 20年3月からコロナ禍になって外へ出て働きに行っていません😢

旦那もリモートワークになって未だ、会社には行っていません。


夫婦揃って引きこもり生活です。 

悲しいことに友達とも疎遠とになり日々旦那以外と喋ることがほとんどありません。 


外へ出ることにブランクもあり不安だったので12月の1ヵ月間、障害者作業所施設にボランティアに行ってみました。

なかなか関わることがなかった方達とコミニケーションが取れて良い経験となりました😉 

今年からはボランティアではなくお給金を貰える仕事をしなければとタイミー登録しました。

 

これが意外と難しいのです😭 

レジ経験者や体力自信ありの仕事などが多く更年期のあやちゃんにはなかなか難しい。

 

マイナス思考のアヤちゃん、出来ないことばかりが先に思い浮かんで前に進めません。


同年代の友達は子育てが1段落して仕事を再開している


子無しでやりたい仕事もなく、無い無い尽くしのアヤちゃん。

周りと比べてはいけない、、、。

50代になっても人生をさまようアヤちゃんなのです。

 

50代になってわかったのは人間、成長しない人は成長しないんだなって言うことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

母が亡くなってからやった事

長い介護優先生活から考えられない程、あっけなくタカちゃん(母)が逝って早2ヶ月が過ぎました。

 

朝目覚めると、もうこの世にたかちゃんはいないんだなぁと感じながら身支度をする日々が続きました😢

 

今でも自分の分身がいなくなったような感じはします。

 

お葬式屋さんから「家族を亡くした後にやること」みたいな冊子をもらたので、それを参考に手続きを進めていきました。

 

死亡届はお葬式屋さんが提出してくれたので除籍された後の手続きをしに、区役所へ行きました。

 

最初に戸籍課に行き除籍謄本を貰い、介護・医療保険課、国民年金課、保健所で身体障害者手帳の返却等々、手続きは半日で済みました😉


思ったよりスムーズで簡単でした。

次にたかちゃんの遺品を整理します。

長い介護生活だったので使わないものは少しずつ整理していたので、遺品といっても衣類と介護用品ぐらいです。

 

車いす用クッション、口腔ケア用品、防水シーツなど需要が高いものはフリマサイトで売りました😉

 

お葬式屋さんのパックに入っていたダンボールで作る御祭壇も、アヤちゃん的にはイマイチだったのでこちらも売らせていただきました😅よく売れたものです💦

 

以前老人ホームで間違ってタンスに入っていた他の入居者さんの洋服はボロボロな服ばっかり😢

 

たかちゃんには気持ちいい服を着てもらいたかったので、アヤちゃんはまめに新品の洋服を補充していました。

 

なのでたかちゃんの服はまだどれも綺麗な服がたくさん残っています。

 

残念なことにほとんどが名前が記されています。

さすがにこれはフリマサイトでは売れないのでお世話になった介護事業所さんに連絡をし、他の利用者さんに再利用していただけるか聞いたところ気持ちよく全部持っていってくれました😉

 

なので遺品整理も意外とスムーズに終りました😉

 

残るは写真のみです😢これはなかなか選別が難しいので、未だ手をつけていません😵

 

タカちゃんは特に仏教徒ではないので49日にお坊さんにお経を読んでもらうこともなく、お墓屋さんのスタッフさんが納骨をしてくれました。

 

昔ながらのお葬式や49日等の儀式はほとんど簡素化されている我が家。

たかちゃんもあやちゃんも生きている時が1番重要❗️死んだときやそれに伴う儀式は簡素化で良い思っています。

そして死後の手続きで1番めんどくさく、労力を使うお金😭金は全てなり‼️です。

 

それは預金の凍結、簡易保険の請求‼️

死後の手続きで1番これが厄介で面倒なのです。

たかちゃんは以前3つ以上の銀行と取引がありましたが長い介護生活の間に減らしていき最後は郵便局の1社だけの取引でした。

なのに、、、なのに、、、この郵便局の手続きが超大変なのです😭

 

たかちゃんの出生時からの戸籍が必要になり、横浜市以外にも川崎市など昔住んでいた区役所に行って戸籍をとってきたり、、、窓口のお姉さんさえてこずる書類📄の山を必要とするのです。 

 

初めて郵便局にたかちゃんが亡くなったことを伝えに行った時は2時間以上帰れませんでした。

長時間かけて必要書類を確認してもらったにもかからわず、本部で書類の不備があると、つき返されることもしばしば、、、。

 

もう3回郵便局に行っていますが毎回1時間以上はかかります。

未だこの手続きは続行中です。

 

恐るべし郵便局🏣

 

 

 

 

 

 

 

さようならエスティマ

要介護5のたかちゃん(母)の移動をスムーズにする為、福祉車両は欠かせませんでした。

 

最後の福祉車両になった3台目のエスティマは今から約9年前に新車で購入した車です。

 

前回のセレナは車椅子👩‍🦼ごとリフトで上げる事が出来て便利でしたが、だんだん長時間車椅子に座っている事が出来なくなってきたので寝たまま移動出来る車が必要になり買い換えました。

背もたれを倒しフットレストを出せばフラットな状態になるので寝て移動できることが出来ます😉

寝ている時に天井が見えると桜の時期とても重宝します😉

助手席の後ろの座席が車外に降りてくるタイプでリモコンで楽々移動させます😉

 

この車のおかげでタカちゃんにたくさんの思い出を作ってあげられました。

タカちゃんがいなくなった今、あやちゃん夫婦2人にこの車は大きすぎます😢

なのでエスティマを手放すことにしました😉

 

最終査定額は1,050,000円😵がんばりました💪


ただ難題が❗️

身体障害者手帳を持っていると税金等が安くなる理由から手っ取り早くたかちゃん名義にしていたことです。

たかちゃん名義の車を売りに出すと相続の車となります。

相続の車が1,000,000円を超えるととても手続きが面倒になるのです😭

1,000,000円以下ならばアヤちゃんの単独名義だけで名義変更ができますが、これを超えると相続人全員の承諾と印鑑証明、相続人である証明として戸籍謄本等たくさんの書類等が必要となります💦


たかちゃんの相続人はあやちゃんと姉の2人です。

金額を聞いた姉が難色を示しました😵

つまり自分にも権利があると主張してきたのです。

今まで姉は「お姉ちゃんは何もいらないよ。アヤが1人で面倒みてくれてるんだから」と言っていたのに💢

 

あやちゃんはとてもびっくりしました😵

 

今までエスティマの車検代、消耗品等の負担や管理は全てあやちゃん1人でやってきていたのですっかり自分の車だと思っていました。

 

よくあるパターンですよね!義務は果たさなくと権利は平等にと❗️

けど、なんとなくわかっていました姉の性格上から😅

エスティマの購入資金に以前あやちゃんが持っていた車の下取り査定が関わっている事を伝えるとそれ以上は主張してこなかったので一安心です。

 

話は変わりますが、今1番悩ませるのは次に乗りたい車がなかなかないことです😭

 

あやちゃんは車の運転は好きな方です😉なのに今どきの車は運転を楽しむこと自体ができない車が多くなってきています。

 

20代の時は四駆のパジェロに乗ってマニュアルをカチカチと動かしながら山⛰道を楽しんでいましたが、いつの間にかマニュアル車がなくなりオートマ車ばっかりに😢

 

しかも人間を馬鹿にしてしまう装備ばっかりがついてきてうっとうしい事この上なし💢

この間見に行った車には縦列駐車サポートシステムなんてものがあったり、ルームミラーに画像が流れて視界がうるさいしで、、、どんどん運転が下手になるシステムばかりが発達してつまらない車ばかり。

 

次はどんな車にしようか思案中です。

 

 

 

身内より他人

たかちゃん(母)が逝って1ヵ月ちょっとが経ちました。

まだしっかりと自分の考えを言えた時たかちゃんは「お葬式はやらなくていいから」と言っていましたが最後のお別れはしたいと思い、小さな小さなお別れ式をしました。

 

たかちゃんの兄弟は5人いますが祖母が亡くなった時遺産相続でとても揉めた為、もう14年以上次男を除いては会っていません😢。


その次男とも疎遠となり、特養入所前に約6年ぶりに会いに行きました。


残念なことに次男は認知症を患っており、おばさんに介護されている状態でした。

なのでたかちゃんが亡くなったことを次男に伝えるかすごく迷いましたが、伝えないことにしました。

お別れ式はアヤちゃん夫婦と姉夫婦、姉の義理の父母とお世話になったヘルパーさん達が参列してくれました。


姉の子供、つまりたかちゃんの孫夫婦は体調不良とのことでお別れ式には参加しません。

 

あやちゃんは思いました。

 

仕事に行けるくらいの体力はあるのになぜ祖母の最後のお別れと納骨に立ち会わないのか不思議であります。 

 

孫が小さい時は沢山いろいろなところに遊びに連れて行き、予備校に行きたいと資金援助を求められた時はタカちゃんの貯金を崩して100万近いお金も出したのに💢

 

就職してからタカちゃんが亡くなるまで孫はこの7年間1度も顔を見せていません。

 

亡くなってからも顔を見せていません。

 

それに比べお世話になったヘルパーさん達はもう仕事で関わっていないにもかかわらず、お線香あげに訪問してくれました。

 

しかもタカちゃんの処分するにはもったいない洋服や介護用品など他の利用者さんに役立ててほしいとお願いしたところ快く引き取ってくれました😉


あやちゃんは思います。

疎遠になった身内より常に寄り添って介護してくれていたヘルパーさん達に助けられていたんだ❗️と。

 

そう思うと寂しい人生ではなかったねタカちゃん。

 

今どきのお葬式屋さんは凄いんです。

お葬式が終わって1週間位に電話があり「何かお困りの事はありませんか?」とお墓の案内、仏壇の案内、遺品整理の案内、香典返しの案内等々抜かりなく営業してきます😅

 

これからの高齢化時代、亡くなる人が増えてそうしたビジネスチャンスを逃さない仕組みが作られていると感心しました😵

 

 

 

 

 

 

 

 

 

複雑な思い

たかちゃん(母)が旅立った翌日、特養に行き荷物の整理を徐々に始めていました。

 

片付けをしていると職員、一人一人が訪室してお悔やみの言葉をかけてくれました。

 

そんな中、よく話す男性職員が救急搬送される前のたかちゃんの状態を教えてくれました。

 

夜勤帯(深夜3時)から様子がおかしく吸引を数回していた事。


朝食時も具合が悪そうで口に運んだものをすぐに出してしまう状態だった事。

 

「深夜帯から様子がおかしいと感じていた」と言ったのです。

 

あやちゃんはとてもびっくりしました。

何故ならば最初に電話してもらった時と緊急搬送されて付き添ってきたケアマネから聞いた話では、昼食前薬の時から急に様子がおかしくなったと聞いていたからです。

 

昼食前薬に訪室するまでは普段と変わらないで吸引もしていなかったと聞いていました。

つまり現場の職員はたかちゃんが深夜帯から様子がおかしいと分かっていたのに、連絡してきたケアマネはそのことを全く知らないであやちゃんに上記のような説明をしていたのです。

 

もし深夜帯から様子がおかしく吸引をしていたなら、いつもと違う❗️と慎重に観察していてくれれば、、、、。

朝食時も食べれる状態ではないと感じていたならもう少し全体状態をチェックしてくれていたなら、、、もっとお腹の状態をみてくれたなら、、、。

 

経管栄養を流さないで欲しかった。

今回たかちゃんは十二指腸閉塞が原因で胃の中のものが逆流して誤嚥性肺炎となり、呼吸不全が直接死因と死亡診断書に記載されています。

 

あくまでもアヤちゃんの予想ですが、早朝に十二指腸閉塞が発生し朝食を食べないため経管栄養(ペグから注入) 250 CC +水分200 CCを午前9時半ごろに注入されたため逆流し、午前11時半ごろ看護師の訪室で急変を確認(意識レベル低下・血圧測定不可)で循環不全状態に、だから救急外来に運ばれた時はショック状態となったのではかと考えてしまいました。

 

考えれば考えるほど複雑な思いに駆られました。

特養の看護師に十二指腸閉塞が予測する事は不可能に近い事でもあり、仕方がなかったんではないか?いやいやケアスタッフがおかしいと思っていたなら、もっと注意して見てくれていれば今回の事態は防げたのではないか?などなど、、、。

 

もしこの状態が家ならば、あやちゃんはたかちゃんの急変にすぐ気づくこともでき、すぐに主治医に連絡し対応できたんじゃないか⁉︎などなど、、、。

 

そもそも、あの施設に入れたのが1番の間違いだった、、、評判が良いからといってタカちゃんにとって最悪の結果となってしまったのではないか、、、施設に入れて半年もたたないうちに逝ってしまうなんて、、、逝ってしまう日が分かっていればまだまだ家で頑張れたのに、、、けど,在宅介護には限界もあり先が見えない中日々追われている生活に疲れきった自分もいたし、、、もう20年たかちゃん中心の生活に疲れていたのは自分であり、解放されたい思いもあったし、、、考えれば考えるほど複雑になるのです。

 

在宅介護中、何度か思ったことがあります。

朝起きたらたかちゃんが息をしていなく安らかな顔で旅立っていることを、、、全く苦しまず旅立つ事は理想でしかないんでしょうが、、、今回の事例がなくても、やっぱりこう複雑な思いをしたのかしら、、、。

 

今まで後悔したくないから沢山タカちゃんの為にしてきた事があるのでやり切った感はありますが、最後の見送り方は考えさせられました。

旅立つ前日まで過ごしてきた部屋には、もうタカちゃんはいません。

 

 

お別れは突然やってきた

日曜日の朝6時半に携帯電話が鳴りました。

 

まだ寝ていたのですぐに出れなく切れてしまい、すぐに自宅の電話が鳴りました。

直感的に昨日たかちゃん(母)が入院した病院からだとわかりました。

 

きっと、よろしくないことが起きたのだとも直感しました。

看護師さんから電話で「今朝方から呼吸と脈が弱くなってきています。今すぐどうと言う事は無いのですが娘さん病院に来られますか?」との事でした。

 

激しく動揺をしました。

前日帰る時はややすっきりした表情で、薬で血圧を上げているとは言え100台で経過していたのでまさかこの時が来るとは予想できませんでした。

 

すぐに姉に電話してから病院へ向かいました。

たかちゃんの病室に入ると顔色が土黄色ぼくなっており、目はトロンとしていました。

 

すぐに状況が把握出来る程、危ない状況だということがわかりました。

 

看護師さんがモニターの数字の一番上が心拍数、1番下が呼吸数を表していると教えてくれました。

血圧はもう測れない状態だとのこと。

「昨夜は頑張っていましたが明方から徐々に今のような状態になってきました」とのこと。

 

静かに呼吸し、しばらくすると無呼吸となりそしてしばらくするとまた呼吸するを繰り返しています。 

 

アヤちゃんはたかちゃんが苦痛なく旅立とうとしているのか伝わってきて涙がボロボロと出てしまいます。

 

今まで何度も何度も危険な状況打破してきたたかちゃん!

今回もきっと回復すると信じていたのに! 今まで頑張ったね、、、もう少しで旅立てるよと思ったり、、、なんでこんなことになったの?と思ったり非常に心が揺れ動きました。

足が冷え症なタカちゃん、少しでもあったかくしてあげたくて手でさすり続けました。

 

時々「お母さんアヤコだよ!わかる?」と声かけをしました。

 

すると酸素マスクをしている口元がパクパクと動き、何かを言っていました。

 

「え!何?何って言っているの?」と繰り返し聞きましたが、何を言っているのかが分かりません!

 

しかし、何かを伝えたいと言うのは伝わりました。

 

そんなやりとりをしていると姉達夫婦が来ました。

 

一人一人たかちゃんに挨拶をし、病院に到着してから約1時間後に旅立ちました。

 

日曜日の雨降る10月15日朝7時53分

 

昨日の昼に急変し1泊2日の入院で旅立つなんて、、、こんなに突然、、、。

 

急変する前日まで口からご飯を食べ、いつもと変わることなく穏やかに過ごしていたのに、、、

要介護5の体になって20年間1度もオムツを取ることも叶わなかったけど、食べる事はできました。

 

辛かったね,お母さん、、、頑張ったね、お母さん、、、長かったね、お母さん、、、

 

もう自由だよ、、、どこだって行けるよ、、、

ありがとう、お母さん